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新井宿義民六人衆

新井宿義民六人衆の霊場

JR京浜東北線の大森駅から区役所通りを池上方向へむかい約一キロ、大森郵便局と道路をへだてて向いの善慶寺に、「新井宿義民六人衆墓」はあります。
善慶寺墓地一側のほぼ中央にあるこの墓は、高さ150cm、人の身長ぐらいのもので、間宮藤八郎という村人が自分の父母の墓という名目で延宝七年(1679年)に建てたものです。

昭和四十七年六月七日、道路拡張のため止むを待ず埋葬位置をずらす必要があり、遷葬式をとりおこなって現在の場所に移されました。 ところで、現在の墓の正面は、実は裏面にあったものです。昭和六年(1931年)十二月二日に墓地が東京府指定の史跡となり、墓地整理にともなってそれまで後を向いていた面を正面に出したのです。

この時、延宝八年の題目講の立派な石碑も、墓の傍らに移されました。「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えて、ひそかに六人衆を供養したと思われる先祖の人々をしのぶと、ここに移すのがふさわしいと考えられたからです。
本来の墓は、藤八郎の父母の法名が正面にあり、そして他人の目を避けるように、墓石の裏面には六人の法名が刻まれていました。六人の戒名は、是信、慶、賢栄、道春、宗円、椿葱。 墓の台石は、四方に花立てと水入れが掘られ、その間をくり抜いてあります。前に手向けた水が裏側にも巡って、人知れず供養ができる仕掛けになっています。 彼らはいったいどのような縁の人物でしょうか。他人の目に触れないようにした理由は何だったのでしょうか。


伝承が事実になった日

昭和四十七年六月七日、午前十一時十五分、東京都庁大田区各文化財関係員や地元関係者の方々が多数参詣されるなか、四十三世日禎上人によりこの墓の遷葬式がとりおこなわれました。 式が始まるのを待っていたかのように雨がふりだし、次第にその雨脚は激しくなってきました。 梅雨をついての発掘となりましたが、みな厳粛な思いで作業を見守っていました。 伝承によると、間宮藤八郎は善慶寺にひそかに葬られていた六人衆の骨をひろって素焼きののり甕に入れ、父母のものと称した墓の下に葬ったとされていたのです。 はたして伝承は事実なのか。

最初にでてきたのは、小さな灰色の素焼きの壷でした。さらに掘り進めると、でてきました!大きな素焼きののり甕の口辺が。伝承どおり六人衆霊位遺骨を納められた甕が出土した時は、一同息をのみ感動の一瞬でもありました。 掘り出された遺骨は改めて新しい骨壷に納められ、本堂に移されて読経が続けられたあと、現在の位置に遷葬されました。

六人衆は、科人として処刑され、噂することすらはばかられた人たちでした。 極悪非道の大罪人として長く「六人もの」と呼ばれていました。 「六人衆」と言い改められたのは、大正五年(1916年)に初めて法要が行われてからのことです。
六人衆のうちの二人、間宮太郎兵衛と間宮新五郎が一家(親類)であったという間宮藤八郎が、彼らの名を墓の裏側に刻んで供養したのも、そん義な状況だったからです。

しかし真実は親から子へ、子から孫へ、語り継がれていきました。
六人衆の尊い行動は、この時、伝承からまぎれもない事実となって光を浴びました。六人衆はなぜこのような目にあったのでしょう。 それを知るには、いまから三百七十年ほど昔にさかのぼらなければなりません。

飢餓と圧政

現在の東京都大田区山王の地は、その昔武蔵野国荏原郡新井宿村とよばれ、約三百年続いた江戸時代において旗本木原氏の領地でした。
新井宿の領主木原吉次はもと遠州(静岡県)の出身ですが、徳川家康が江戸に移った折それに従い、普譜奉行として新井宿村四百四十石が与えられたのです。 しかしこのあたりは湿地帯で「不入斗(升に入らないの意)」という地名があるほど収穫は少なく、村人は農耕の他に人足仕事や馬による運搬業で生計を立てていました。 ところが寛文十一年(1624年)には農耕外の仕事がなくなり、生活の負担が大きくのしかかってきました。

さらに悪いことには、この年、不正な検地が行われたのです。 領主木原氏の委託により八木三郎兵衛の手で実施された検地は、畦道なども水田と見る厳しいもので、年貢増を狙ったものでした。 村人は無理な年貢取り立てに苦しみ、生活は疲幣と窮乏をたどる一方となりました。 悪いことはさらに続きます。延宝元年(1673年)は干魃となり、翌二年の夏は六郷川が氾濫、農作物の被害は大きく、翌三年は遂に飢饉となりました。そのため江戸では救助米が施行された程でした。

新井宿村でも四台目義永の代となった木原家に対し、名手惣百姓にてしたためた十九ヶ条からなる訴状美濃紙縦ニッ折綴冊(12枚綴りタテ31cmヨコ22cm)が延宝二年九月十九日に出され、年貢減免を願い出ました。 しかし、苛政に対する批判や重税への抗議が書かれていたためか、村民そろっての窮状の訴えは軽く一蹴されてしまったのです。 この十九ヶ条よりなる訴状帖は、写しが間宮太郎兵衛分家の子孫である間宮新太郎の籠の中より明治三十四年に発見されたことで、明らかにされました。

その訴状には当時の痛ましい状況が、切々と書かれています。 歯をくいしばって生産にはげんでも、年貢においたてられる窮状は言語に絶するものでした。 子女は奉公に出して口減らしをし、高い金利の金を地頭から借りてまで年貢を納めなければなりません。 その借金が返済できず田地を取り上げられたり、家や馬を手放す者もいました。 ひところ六十頭もいた馬がいまや村中で十頭ほどとなり、しかも利用に耐えるは四、五頭であるという現状も書かれています。
翌年の延宝三年十一月二十三日にも、村人たちはまた代表をだして八木検地の縄入れの改めを願いでています。 しかし領主はなんら救いを施そうとせず、村人の期待は大きく裏切られることになりました。

駕籠訴えと斬首

こうした暴政に耐えかねた村人の代表者、酒井権左衛門、間宮太郎兵衛、間宮新五郎、鈴木大炊之助、平林十郎左衛門、酒井善四郎の六人は、死を賭して老中へ駕籠訴えをするか、奉行所の白州へ駆け込み願をとる他なしと覚悟を決め(一節には将軍家綱への直訴を企つ)義挙の行動を起こすことにしました。

そこで延宝四年の十二月に江戸表へ赴き、浅草馬喰町二丁目の武蔵屋に泊まり訴訟の機会をうかがっていました。 しかし、いつの世でもこのような大きな問題は賛否対立するもので、村人のなかに木原氏に密告する者がありました。

万一、訴えが幕府役人の耳に届きでもしたら、よくて減地、改封、悪くいけば切腹、家名断絶になりかねません。 直ちに追手が差し向けられ、六人はあと一息のところで正月二日、宿に乗り込んできた上屋敷の役人数名に捕えられてしまいました。 彼らは麹町一番町の木原本邸に送りこまれ、厳重な取調べを受けましたが、頑として口をわりません。 ついに延宝五年一月十一日、六人はむごい斬首に処せられたのです。

赤馬と黒馬

斬首のあった日、村の百姓代である同志市兵衛のもとに、木原邸より差紙が届きました。 江戸の屋敷から運ぶものがあるから、明日、二頭の馬を連れてこいという内容のものでした。 市兵衛は村で残り少ない良馬をもつ家だったのです。

何事かといぶかりながら屋敷を訪ねた市兵衛が命ぜられた仕事は、無残な姿で中庭に放り出されている六人の死体を、村まで運ぶことでした。 自分が親しかった人々の死、そしてあまりにむごい役人の仕打ちに、市兵衛は悲しみ憤りました。

「いっそ自分も一緒に切ってくれ」と言う市兵衛に、酒をのみかわしていた木原家の役人たちは、「だれがその死骸を片付けるのか」とせせら笑いました。 それを開いた市兵衛は思い直しましたが、村人のために死んだ六人に申し訳ないという気持ちでいっぱいだったのでしょう。 その場で髷を切り文五郎と名を改めました。 泣く泣く六人の遺骸を一人ずつ米俵につめ、赤と黒、二頭の馬にのせて村へ帰りました。 その時の馬が使ったと伝えられる飼葉桶が今も善慶寺に残っています。

さて、村に帰った六人の遺骸はどうなったのでしょう。 直訴の罪は重く、六人は天下の大法を犯した大罪人とされました。 葬式や法事はダメ、墓を立てることも許されません。 はっきりしていない遺族もいますが見せしめのため家は断絶、財産は没収されました。 間宮新五郎の遺族は追手をかわして村を逃れました。 間宮太郎兵衛の妻は家に火を放ち、母子とも焼死しています。

禁を破って墓域に埋葬

科人として村に帰った六人の遺骸の行先はありませんでした。
それぞれの菩提寺も、ひきとることさえためらったのです。 そこで、善慶寺第二十世証源院日応上人が六人衆の遺体を引き取り、当時の禁を破って墓城に葬り供養に心がけられました。 十九世遠妙院日首宣上人がよき理解者であり同志でもあったからです。 遠妙院日宣上人は延宝四年五月二日迂化されておりましたが、証源院日応上人は先師と共にその意志を継承されました。

その後間宮藤八郎が父母の墓を立て、その中に六人衆の遺骨を移したのは先に述べたとおりです。 領主側は六人を極悪非道の反逆人にしあげ、明治のころまでは「六人もの」と呼ばれていましたが、六人衆と苦楽を共にした村人が六人を罪人にしてしまうことはできません。

延宝八年には、題目講により供養碑も建てられました。 今日では新井宿義民六人衆顕彰会が組織され二月には年々慰霊感謝祭が盛大に催されます。 村人全体の幸を願い敢えて自らの命を犠牲にされた尊い義挙の行動は民主主義の英雄であり、宗教的には菩薩行の実践といえましょう。 このように郷土に開いた義民の花は永劫に妙香を放ってしぼむことなくその精神は永遠に郷土の文化と平和の中に活きて行くことと思います。 私達は六人衆の遺徳顕彰に心がけると共に又尊い犠牲者の供養をひそかに心がけられた方々も忘れてはなりません。


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